第16回 新吉原大門

 元吉原遊郭は葺屋町(現中央区堀留2丁目附近)にあったが、明暦3(1657)年に浅草の北、千束村に移転してくる。新吉原には徒歩でも駕籠でも猪牙舟でも日本堤を経なければ行けなかった。日本堤から左(西)へ折れて、カーブした五十間道(日本堤から大門までおよそ五十間あった)を辿ると大門に突き当たる。五十間道は下り坂になっており、遊客が衣装を直したので衣紋坂とも呼ばれた。当初は質素な門だったらしいが、徐々に厳しくなり、江戸時代の終わりには黒塗りの冠木門が造られたりした。


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【写真1】明治5〜6年頃の吉原大門。

 明治5〜6年頃の大門の写真【写真1】では、奇妙な形の門になっている。大門は新吉原唯一の出入口である。上方風に「おおもん」と称し、「だいもん」とは言わない。東京で「だいもん」と呼ぶのは芝増上寺の大門である。吉原七不思議というのがあり「大門あれど内に玄関なし」と言われたそうだが、確かに玄関はない。五十間道がカーブになっているのが窺える写真である。


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【写真2】明治14年頃の吉原大門。

 明治14年1月、長瀬正吉の作である鉄製の大門が完成する【写真2】。開門式は同年4月1日に挙行された。門柱には福地桜痴作の漢詩「春夢正濃満街桜雲 秋信先通両行灯影」が鋳造されていた。門の先は花魁道中のあったメインストリートの仲之町(なかのちょう)で、春には桜が植えられた。


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【写真3】明治末期の吉原大門。

 【写真3】は明治末期の絵葉書。鉄製の門の上にアーチが架けられ豪華になった。アーチに取り付けられた15灯の電球は、桜の形をした笠に収まっている。中央には竜宮の乙姫が玉を捧げた装飾も施された。昭和62年に上映された五社英雄監督作品「吉原炎上」は、プロローグにこの大門を潜り抜ける映像が写されていた。吉原は誘客にとっては正に一夜の竜宮城だったのであろう。大門は大正12年の大震災で破損し、その後は造られていない。


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【写真4】平成14年撮影の大門のあった場所。

 【写真4】は平成15年の撮影。五十間道のカーブが残っているので同じ場所と推測できる。カーブの先に大門があったと思われる。華やかだった吉原を彷彿とさせるものは写真では何も見られない。

 しかしながら、粋(すい)、野暮、伊達、ひやかし、だいじん、しゃらくさい、てれんてくだ、くらがえ、なじみ、ふる、手切金など、吉原が生み出した言葉は、いまも数多く使われている。


(写真・文 石黒敬章)

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