第15回 山谷堀から向島を望む

 待乳山のある浅草7丁目と、台東リバーサイドスポーツセンターのある今戸1丁目の境に、かつて山谷堀という堀川が流れていた。江戸時代初期に掘られたものだという。江戸末期から明治期には茶屋や待合が多く、芸者もいてたいそう賑ったものだった。この辺りは堀と俗称されたため、堀の芸者と呼ばれたそうである。

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【写真1】山谷堀から向島(明治5、6年頃)

 【写真1】は明治初年に山谷堀から向島方面を写したものである。左は山谷堀河口にあった料理茶屋「有明楼(ゆうめいろう)」である。安政3年に新築され、小林清親の東京名所図絵に『今戸有明楼之景』として描かれた名亭。矢田挿雲著『江戸から東京へ』によれば、土佐の山内容堂が終日借り切ったこともあった。また参議となった広沢実臣もよく公家衆と同席で堀の芸者を呼んだ。広沢参議は有栖川宮など6人の公家をこの有明楼で供応しようと、芸妓の選定など諸準備を終え、いよいよ宴会という前日(明治4年1月8日)の夜半、暗殺されてしまったそうである。

背景は向島堤で右手に大きな木がある所が、牛島神社(昭和2年川下の現在の地に移転)や長命寺がある辺りである。隅田川の手前今戸海岸前は浅く、砂州が広がっていたことが写真で分かる。


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【写真2】隅田川の船遊び(明治5、6年頃)

 【写真2】は有名写真師内田九一撮影の隅田川船遊びの写真だが、この写真は【写真1】に写る有明楼前の浅瀬で撮影されている。この写真はチャールス・ロングフェローというアメリカ人が明治4〜7年に来日した際、内田九一を呼んで撮影したものと思われる。ロングフェローのアルバムに同じ写真がある。屋根船に乗る左から二人目の女性が有明楼女将のお菊である。【写真1】に屋根船が一艘写るが、同じ船の可能性がある。【写真1】も内田九一撮影の可能性が強い。


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【写真3】山谷堀から向島(明治25年頃か)

 【写真3】はそれから暫く時を経てからの写真である。明治25年〜30年頃であろう。【写真1】とほぼ同じ方向を写している。山谷堀も隅田川も水かさが増えている。向島の大木は健在だが、家屋はだいぶ増え煙突も1本見える。


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【写真4】平成18年7月30日現在。左が山谷堀河口に造られた水門。橋は昭和60年3月竣工の桜橋。

 【写真4】は現在の同じ場所。山谷堀は暗渠になった。隅田川河口には水門が造られていた。隅田川はコンクリートで土手が固められたので、随分趣が変わってしまった。


(写真・文 石黒敬章)

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