第14回 浅草仲見世の変遷

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【写真1】赤煉瓦造りで完成直後の仲見世。

 浅草寺の雷門から仁王門(現在は宝蔵門)までの表参道の両側に並ぶ商店街を仲見世と呼ぶ。附近の住民に浅草寺境内の掃除を頼んだ見返りに出店を許可したのが始まりという。当初は露天だったと思われるが、明治になると、浅草寺から東京府の管轄になり、公園事務所が管理を任される。明治18年(1885)12月25日に、銀座煉瓦街の影響を受け、赤煉瓦造りの建物が竣工する。店舗は身元確かな商人に貸し与えられた。【写真1】はその竣工直後の写真である。店は狭かったけれど、多くの参拝者が土産を買う一等地であり、多額な商売ができるので借用を望む人が多かった。営業権は高騰し、また貸しをする人もあったという。右手前は明治元年創業の清水屋で、左手前は享保年間創業といわれる梅林堂。現在も盛業中である。

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【写真2】明治末か大正初頭の仲見世。

 【写真2】は明治末か大正初頭の仲見世の様子。張り出した屋根には電灯がズラリと並び、看板も増えて華やかになっている。左側に塔も建っている。手前の時計塔は明治27年開業の共栄館勧工場の時計塔。はじめは鋭角の時計塔だったが、明治30年代の終わり頃、この様に丸みを帯びた塔に改良された。共栄館勧工場は創業の年を記念して毎月27日が休業日だったそうである。奥にある塔はお汁粉梅園の2代目清水文蔵が明治25年に新造。当初時計塔だったが、明治末年に時計の位置が鬼門にあたるとして取り外してしまった。この写真ではすでに時計がない。

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【写真3】大震災後に木造で造られた仲見世。仁王門は健在である。

 大正12年9月1日、関東大震災が起こり浅草区は家屋の大部分が焼失する。赤煉瓦の仲見世も焼失した。しかし浅草寺観音堂、仁王門、五重塔、伝法院などは奇跡的に焼失を免れ、観音様のご加護とも噂され、浅草寺の参拝客は絶えなかった。そのため、急遽木造で仮設の仲見世が造られたことが【写真3】で分かった。この店舗での営業は短期間だったので、かなり珍しい写真といえよう。


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【写真4】鉄筋コンクリートで再建なった仲見世。

 【写真4】は大正14年10月30日に再建なった仲見世商店街である。15棟148戸の鉄筋コンクリート造りで、この建物が現在も引き続いて使われている。


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【写真5】現在の仲見世商店街。

 【写真5】は現在の仲見世である。大震災で難を逃れた奥の仁王門は昭和20年の空襲で焼失してしまった。いま見える門は昭和39年、大谷米太郎の寄進で再建された宝蔵門(旧仁王門)である。


(写真・文 石黒敬章)

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