第13回 浅草花やしきの変遷

 かつて奥山と呼ばれた浅草寺の裏手から、花やしき通りを西に行くと、右側に遊園地が現われる。嘉永6(1853)年、森田六三郎が「花屋敷」として創業した「浅草花やしき」である。文化元(1804)年に北野鞠塢(きくう)が向島に開園していた花屋敷(現向島百花園)と紛らわしいと苦情もあったという。

 当初は植物を見せた庭園だったが、明治19年には材木商の山本松之助が買い受け、次第に目新しい施設を作っていく。

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【写真1】明治中期の花屋敷。

 【写真1】は明治20年代の入口であるが、左奥に屋根の上に金鶏を載せた五層の奥山閣(鳳凰閣とも呼ぶ)が建った。これは御用商人として財をなした深川の材木商信濃屋の丸山伝右衛門(通称シナ伝)が邸内に建てたもの。そのシナ伝が御用商人を外され凋落した時(明治21年)、山本松之助が花屋敷に移築したといわれる。


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【写真2】明治40年前後の花屋敷。

 【写真2】は明治40年頃である。この頃になると活人形や珍しい動物を公開して人気を呼んだ。門の上の看板には象やライオンが描かれ、「西洋安屋津里活人形(せいようあやつりいきにんぎょう)」「山雀(やまがら)の奇術」の立て看板でお客を誘っている。入口の右手には写真館もあった。背後に明治23年竣工の凌雲閣(通称浅草十二階)が写る。


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【写真3】大正時代の花屋敷。

 【写真3】は大正時代の絵葉書。入口の門は明治末年に造りかえられたらしい。門の上には大きな看板が掲げられた。門の左に建つ立て看板でこの頃のアトラクションが分かる。「活人形」「木馬館」「大井憲一郎一座」「奇術」「さる 犬の曲芸」「豆自動車」である。右手の写真館はまだ健在である。


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【写真4】昭和初年の花屋敷。

 【写真4】は大震災後、復旧なった花屋敷。立派になったが、奥山閣も背後の凌雲閣も姿を消した。


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【写真5】現在の花やしき。

 【写真5】は現在。震災を境にして遊戯機械を備えた娯楽場に変身していく。昭和28年には日本初のジェット・コースターを設置。花やしきは小粒ながら日本の遊園地の元祖である。平成に入って経営が思わしくなくなり、会社更生の手続きをとった。そこでバンダイグループが支援し、平成16年に新たに「浅草花やしき」としてスタートを切っている。


(写真・文 石黒敬章)

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