第12回 上野広小路

写真
【写真1】松坂屋屋上より上野公園を望む。大正時代。

 大正時代、松坂屋上野店の屋上から上野公園を望んだ絵葉書【写真1】である。上野広小路が写っている。明暦3(1857)年に振袖火事が起こった後、寛永寺を火災から守るため、御成道を拡幅して日除地とした。江戸期には門前町として賑わい、道幅が広かったのでここに名産品を売る小屋が建ち並んでいたという。

 上野戦争で寛永寺境内は灰燼に帰したが、明治6年に公園に指定され整備される。明治10年に第1回内国勧業博覧会、14年に第2回、16年に水産博覧会、24年に第3回、40年に東京勧業博覧会、42年に発明品博覧会などと、幾度も博覧会が開催され多くの人を集めた。大正時代に入ると、博覧会はほぼ毎年開催された。明治15年には上野駅、帝室博物館、動物園がオープンしていることもあり、広小路は賑った場所であった。

写真
【写真2】奠都50年記念祭での上野広小路の雑踏。

 ちなみに江戸が東京になって50年目にあたる大正5年5月9日、上野で奠都(てんと)50年記念祭が行われた時などは、式典が終わると広小路はこの様に人で溢れたのだった【写真2】。

 【写真1】の中央奥に鈴木時計店の時計塔がある(写真が小さく判別が難しそうだが)。『東京時計塔記』(平野光雄著)によれば、明治30年の暮れに時計塔が備え付けられ、大正12年の震災で焼失したという。

 左端の大きな建物は、帝国博品館工場である。いまのスーパーや百貨店のような小規模のものである。新橋にあった帝国博品館工場と同じ鈴木兄弟の経営であった。明治40年頃の創業で昭和20年の空襲前まであった最後の勧工場であった。

 十数年前に、大正時代に人形町で三味線を弾いていた粋なお姐さんだった人(小林千代さん)に、この写真を見せたことがある。「あら懐かしいわね。上野にはよく遊びにいったものよ。私の行った頃は(大正末か昭和初期)、この勧工場の2階に雀荘があったのよ。勧工場の先にはへのへのもへじというお菓子屋さんがあって、そこのキンツバは美味しかったわ。これ不忍池ね。ここには蓮をみにいったわね。蓮の花って咲く時にポーン・ポーンと弾けるの.その音を聴きに行ったものよ」。昔って風流だったのですねー。

写真
【写真3】現在の上野広小路。

 【写真3】は現在の上野広小路。松坂屋の屋上は外部の視界が塞がれているので、歩道橋の上から撮影した。左側の野村證券のところに帝国博品館工場があったと思われる。


(写真・文 石黒敬章)

編集部おすすめ!石黒敬章氏の本

Copyright © presona. All rights reserved.