第11回 上野駅

 明治16年7月27日に上野から熊谷まで汽車が走った。日本鉄道株式会社によって運行された鉄道で、上野駅は日本最初の私鉄駅である。日本鉄道株式会社は、岩倉具視が提唱し、蜂須賀茂韶(もちあき)や伊達宗城などを発起人に、華族が中心になって出資した会社である。華族や士族の授産政策の意味合いを持っていた。官有地の無償貸与や税金を免除されるなど優遇され、私鉄といっても政府色の強い会社だった。明治17年には高崎、明治18年に宇都宮、明治24年に青森まで開通する。

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【写真1】明治20年代の上野駅。左手がホームと線路になっている。

 【写真1】は明治20年代の上野駅で、現広小路口(南側)あたりから北を見たもの。明治16年の開業の頃は仮の駅舎で、本写真の駅舎は明治18年7月の竣工である。といっても煉瓦造りの小ぶりな駅舎だった。

 明治18年7月16日、上野―宇都宮間が開通した際、斉藤某が握り飯に沢庵を添えたものを竹皮に包み宇都宮駅で販売した。これが駅弁の始まりとされている(熊谷駅で寿司とパンを売った方が先だとの説もあるようだが)。

 明治24年9月20日、日本鉄道株式会社は青森まで開通させるが、その工事視察のため、明治21年6月13日に井上勝鉄道局長が一ノ関に出向いた。そのとき網張温泉に案内された。途中、井上は岩手山麓に拡がる原野に魅入られる。そして開発者井上勝、出資者三菱の岩崎弥之助、経営者日本鉄道副社長の小野義信の協力で牧場を創設することになった。牧場名は3人の頭文字を取って、明治24年に「小岩井農場」と名付けられた。いまも続く小岩井農場は上野―青森間開通の落し子である。

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【写真2】明治39年前後に撮影の上野駅。写真絵葉書。

 明治39年3月31日、鉄道国有法が公布され、日本鉄道株式会社はじめ日本各地の私鉄は国有に帰した。【写真2】が国有になる直前か直後の上野駅である。【写真1】から十数年後に同じ方向から写した写真である。駅舎には雨よけの庇屋根が増築された。昇降客も増えたようである。この駅舎は関東大震災で焼失する。


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【写真3】現在の上野駅。南側から北に向かって撮影。【写真1】【写真2】とほぼ同じ角度で写したつもりである。

 現在の駅舎は昭和7年に竣工。上野は当初から日本では珍しいヨーロッパスタイルのターミナル駅であった。東北線や上越線の線路はここで行き止まりになっている。「北の玄関」として親しまれ、昭和30年代、40年代には金の卵と呼ばれた集団就職の若者を乗せた列車が18番ホームに到着した。昭和39年、関口義明作詞、新井英一作曲で伊沢八郎が歌う「ああ上野駅」が大ヒット。いまも多くの人の心の中に生きていて、カラオケで歌い続けられている。【写真3】は現在の上野駅。昭和63年3月、東北新幹線の上野―盛岡間が開通。平成3年5月には新幹線の上野―東京間が延長された。北の玄関も変わっていく。平成13年には郷愁の18番ホームも廃止となった。


(写真・文 石黒敬章)

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