第10回 谷中五重塔

 私は谷中に墓地があり、昔からよく訪れる場所である。子供の時にはまだ五重塔が健在で、春には観光バスも霊園に乗り入れていたことを想いだす。現在の谷中は西半分が寺町で多くのお寺があり、東半分が都立谷中霊園や寛永寺霊園など墓地になっている。谷中には慶安年間(1648-1652)頃から多くの寺院が起立されたそうである。谷中霊園は往時天王寺の伽藍だったが、上野戦争で焼失した後共同墓地になったところである。

 その共同墓地のランドマークが天王寺五重塔だった。

 五重塔は天王寺がまだ感応寺と言っていた正保元(1644)年に創建。ここに高さ十一丈二尺八寸(34.18m)の関東で一番の高塔が聳え立った。しかし明和9(1772)年2月に目黒行人坂の火災で焼失。それで寛政3(1791)年に、近江国(現滋賀県)高島郡の棟梁八田清兵衛を中心に48人で再建されたのがこの写真の五重の塔である。このことが幸田露伴の小説『五重塔』のモデルとなっている。上野戦争では幸い五重塔は焼失を免れた。しかし残念なことに、昭和32年7月6日の早暁に放火で焼失する。 現在は土台の礎石しかない。思いのほか礎石の面積が小さく、このように狭い敷地に建っていたのかとびっくりする程である。

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【写真1】明治中期の谷中五重塔

 東京には谷中の五重塔のほかに、浅草浅草寺、芝増上寺、中野宝仙寺、上野寛永寺、池上本門寺と6棟があった。しかしいまに遺る五重塔は上野寛永寺(現在は東京都所有)と池上本門寺の2棟しかなくなった。

 【写真1】は谷中霊園のメインストリートを南側から写した絵葉書だが、同じ写真が横浜写真にもあるので、撮影は明治20年代と思われる。右に大きな石碑がある。明治16年に創られた「佐藤尚中の石碑」である。その後、明治31年に「井上達也之碑」が建つから、この写真は明治16年から明治31年の間の撮影と思われる。

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【写真2】現在の同じ場所。

 【写真2】は現在で、同じ場所から撮影したもの。かつては谷中交番(駐在所で中央に見える2階家)の向こう側に五重塔があった。日暮里駅の近くまで桜並木が続き、春には花見客で賑う通りである。そろそろ(墓地だからぼちぼちか)掛け声だけでなく、五重塔を復元してもらいたいものである。



(写真・文 石黒敬章)

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