第9回 吾妻橋の変遷

 台東区花川戸1丁目と墨田区吾妻橋1丁目を結ぶ隅田川に架かる橋。今回はその変遷を辿ってみよう。明治9(1876)年に架け替えられるまでは大川橋が正式名称だった。大川橋は安永3(1774)年に町人によって創架と言われる。私橋だったので渡るときには橋銭(通行料)が必要だった。文化6(1809)年に橋銭は禁止になり、明治5年になると官費維持の橋になった。

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【写真1】明治初頭の大川橋

 【写真1】はまだ大川橋と呼ばれていた頃の木橋である。明治初頭の撮影の古い写真だ。本所側の川下から上流を望んだもので、左側が浅草になると思われる。橋脚が等間隔で並んでいない。しかも垂直でない橋脚もある。


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【写真2】明治9年竣工の吾妻橋

 【写真2】は明治9年に改架された吾妻橋。この橋から吾妻橋と呼ばれるようになる。木橋だが、欄干や橋脚を斜めに支える梁で補強した西洋式のトラス橋となった。しかしこの橋は明治18年の洪水で流失してしまう。


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【写真3】仮橋の吾妻橋

 【写真3】は、明治18年9月に突貫工事で架けられた仮橋である。橋脚の間に流された旧吾妻橋の橋脚が残っている。


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【写真4】明治20年、鉄橋になった吾妻橋

 【写真4】は明治20年に日本初の大型鉄橋としてデビューした吾妻橋である。12月9日に華々しく開橋式が行われた。鉄骨ラーメン構造のトラス橋であった。これは浅草側から本所側を見たもの。左手に大日本麦酒株式会社(現アサヒビール)の工場が望める。この鉄橋は床が木造だったこともあり、関東大震災で焼け落ちてしまう。震災復旧事業により一度は修復され使われるが、昭和6年3月に現在の吾妻橋が竣工する。


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【写真5】現在の吾妻橋

 【写真5】は現在の姿である。橋の向こう側の上には首都高速道路が横切る。左奥の洒落たビルは平成元年竣工の「アサヒビールタワー」と「スーパードライホール」(フィリップ・スタルクのデザインによる炎のオブジェが乗る)である。橋の手前の巡査派出所は、日本的な花川戸交番になった。



(写真・文 石黒敬章)

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