第8回 上野精養軒

 岩倉具視に仕えた北村重威が明治5年2月に馬場先門前に精養軒を開店させた。ところが開店当日の26日午後3時頃、和田蔵門内の旧会津屋敷から出火した火災で焼失してしまう。それにもめげず北村は同年5月に采女町33番地に精養軒を開店している。

写真
【写真1】明治中期の上野精養軒。中嶋待乳撮影と思われる。

 上野精養軒はその支店として明治9年4月4日に上野公園内に開店した(現在と同じ場所)。【写真1】は明治20年頃の上野精養軒である。瀟洒な西洋館であったことが分かる。内外貴顕が宿泊し、創業以来大入りで繁盛したそうである。

 明治35年4版発行の『日本之名勝』(史伝編纂所発行)によると、当時精養軒には店舗が五箇所あった。

一 東店精養軒(西洋料理店)京橋区采女町
二 西精養軒(西洋飲食料理販売店)京橋区采女町
三 上野精養軒(旅館兼西洋料理店)上野公園
四 精養軒品川出店(和洋料理店)
五 東海道官線鉄道食堂車(西洋料理店)

 五の食堂車については、明治34年から朝夕新橋〜神戸間の急行列車で、公益を図り私利を顧みずに営業したという。

 築地精養軒は明治44年に銀座尾張町角にカフェ・ライオンを出店するなどの多角化を進めたが、大正12年の関東大震災で焼失したため、昭和6年に閉店している。以後上野が本店になった。

 精養軒は西洋料理の草分けであり、ハヤシライスが名物料理だった。ハヤシライスという和洋折衷料理が日本に流行るのは明治30年代からとされる。ハッシュド・ビーフにとろみをつけたものをライスにかけたことから始まったといわれる。ハッシュドビーフ ウイズ ライスが訛ったのが語源との説である。

 一方、丸善の創業者である早矢仕有的(はやしゆうてき)が、知人が来宅した際、あまり物の肉や野菜をごった煮にして味付けしたものをご飯にかけて供応した。それでハヤシ(早矢仕)ライスと呼ぶようになったとする説もある。

 精養軒ではコック長であった林さんが、賄い料理としてとしたことから始まったのでヒハヤシ(林)ライスとなったとしている。


【写真2】現在の上野精養軒。

 真相ははっきりしないが、筆者が上野精養軒の現在の写真【写真2】を撮影に行ったついでに食べたところ、確かに美味しかった。「精養軒 ハヤシナイスと はやしたて」(筆者の駄作)。



(写真・文 石黒敬章)

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