第6回 柳橋

 飯田橋、御茶の水を通って流れてきた神田川は、ついには隅田川に流れ込む。その最下流に架かる橋が柳橋である「柳橋の創架は記録によると元禄十一年(一六九八)とかなり古く」と「文政町方書状」を根拠に『東京の橋』(石川悌二著)には書かれている。橋の南詰めの表示板によれば、江戸時代末期に町年寄の樽屋藤右衛門によって木橋が架けられたとある。要するに柳橋の創架ははっきりと分からない。

 橋が架けられると、「川口出口の橋」とか「川口橋」とか呼ばれていた。それが柳橋となった由来は、神田川の万世橋あたりから下流にかけては土手に柳が植えられ、柳原堤と呼ばれていた。その東端にあった橋だからとされる。一説では、東日本橋にあった薬研堀に架かっていた元柳橋に因むとも、橋の傍らに老柳が一樹あったからとも言われる。また、むかしは橋際まで御矢を収めた矢の倉があったので矢の倉橋と呼ばれ、それが訛ったからとも。まあ諸説がある。

 橋の名に因み、河口附近の町名は柳橋と俗称されるようになる。「江戸期には第1の花街であり、幕末の船宿33、芸妓100余名と伝えられる。」(『角川日本地名大事13東京都』)とあるように、江戸、明治期を通じて、芸妓と料亭と船宿の街だった。柳橋の芸妓は一流との自負があった。維新となり薩長出身の者が近づいても田舎者として相手にしなかった。よって薩長の高官は新橋芸者と仲良くした。柳橋芸者を贔屓にしたのは江戸っ子たちだった。

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【写真1】幕末か明治初頭の柳橋。隅田川の対岸(両国側)から望遠レンズで写したと思われる。

 【写真1】は幕末か明治初頭に撮影の柳橋である。中央が高くなった反り橋であることが分かる。沿岸には船宿が軒を連ねている。柳橋の船宿の人が開発したという小型猪牙船(ちょきぶね)が停泊している。江戸市中に荷を送る船は霊岸島附近が中心だったが、人を送る船は柳橋が中心だった。特に吉原通いは柳橋からこの猪牙船で行くのが通人とされた。


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【写真2】明治中期の柳橋。右端の料亭はまだ万八楼なのか、亀清楼に変わった後なのかはっきりしない。

 【写真2】は明治初年に改架された柳橋。これが最後の木橋である。橋が平になった。【写真1】で北側にあった樹木は切られてしまってない。柳橋の北側には万八楼(廃業後に亀清楼になる)、柳光亭、高砂楼など、南側には梅川、河内屋(かわちや)、柳屋などの料亭が並んでいた。


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【写真3】鉄橋に改架された柳橋。明治20年以降の撮影。神田川河口から上流を望んだもの。

 【写真3】は明治20年7月に鉄橋になった柳橋。この鉄橋は関東大震災で壊れたため、昭和4年に永代橋をモデルとしたミニ版の鋼鉄橋【写真4】が造られた。南詰めに石碑があり、「春の夜や女見返る柳橋」「贅沢な人の涼みや柳橋」という正岡子規の詠んだ句が刻まれている。柳橋がよき時代だった頃の名残である。


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【写真4】現在の柳橋。右のリバーサイドビルの中に亀清楼がある。隅田川対岸より撮影。

 現在は台東区柳橋1丁目(北側)と中央区日本橋2丁目(南側)を結んでいる。


(写真・文 石黒敬章)

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