第17回 日本橋

 日本橋は江戸開闢(かいびゃく)の慶長8(1603)年に架橋された。当初日本橋周辺の地は、移住者に無料で提供されたのだという。なんともうらやましい限りだが、潮風の強く飲み水もない埋立地で、一向に人気がでなかった。ところが暫くすると、伊勢から移民が大挙して押しかけてきてこの地をもらいうけたのである。日本橋から京橋にかけては、伊勢商人の始めた店が軒を連ね、江戸で最初の商店街となった。それ故、店の大半が「伊勢屋」という商号を用いたそうである(後に駿河町に呉服屋を開いて大成功をした三井家も伊勢の出身である)。そうなると無代の地に価値が生じ、当初は一屋敷一両か二両で取引されたが、大坂夏の陣のあった慶長19(1614)年(埋め立て完了から10年目)には、百両二百両はおろか五百両の高値をよんだところさえもあったと、木村毅は『大東京五百年』※で述べている。地価の高騰は江戸時代初期にもあったようである。


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【写真1】日本橋川北岸から日本橋と電信局を望む。明治10〜14年の名刺判写真。

 【写真1】は明治6年5月31日に架橋された日本橋最後の木橋の写真である。長さ28間、幅6間、欅で造られていた。橋の南北に石標があり、南側の石標裏には「明治五年十一月二十七日創工、至六年五月三十一日成、資皆出於会議所蓄積」と刻まれていたそうである。江戸期に町会所が積み立てていた資金で造った橋だった。この橋から中央が盛り上がった反り橋でなくなった。船の運航より、陸上の車の通行を優先する始まりとなった橋である。日本橋川上流北岸より写している。写真の右手、橋の南詰にある白い洋館は明治5年5月12日に開局した電信局である。電信局の前には真新しい電信柱が立つ。明治10〜14年頃の写真である。


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【写真2】電信局が新築された明治15年以降に撮られた名刺判写真。

 【写真2】は暫く後に、ほぼ同じ位置から写された写真。南詰の電信局は【写真1】と外観が異なる。明治15年に工部省営繕課の設計で赤レンガ2階建ての庁舎が造られたのである。改築されたのかと思っていたら、JCIIフォトサロン所蔵の写真に新旧両電信局が写り込んでいる写真があり、日本橋川に近い別の場所に新築されたことが分かった。明治15〜25年頃の撮影であろう。


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【写真3】石橋に改架された日本橋の絵葉書。電信局は健在である。明治末。

 【写真3】は明治44年、妻木頼黄(つまきよりなか)の設計で荘厳な花崗岩の石橋に改架された日本橋になっている。橋灯を飾る麒麟と獅子のブロンズ像は渡辺長男(わたなべおさお)の作品である。【写真2】に写る電信局の建物はまだ健在である。

 写真では見えないが、日本橋北側には一心太助も通ったという魚市場があって大いに賑わいを見せていた(震災後築地に移転)。日本橋は道路元標があって日本のへそであるばかりか、胃袋も兼ね備えていたのである。


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【写真4】平成22年1月現在の日本橋。首都高速道路を移築する計画は持ち上がるが、費用が膨大でなかなか実現しない。

 さて、いま同じ場所から日本橋を望むと【写真4】、首都高速道路が空を塞ぎ大いに景観を妨げている。日本のへそにペタンと絆創膏が貼られているように見える。日本橋は、高度成長に浮かれた時代の病巣を表すシンボルとなってしまった。

※『大東京五百年 江戸のあけぼの』木村毅著、昭和31年、毎日新聞発行の43〜46頁参照。


(写真・文 石黒敬章)

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