第16回 築地明石橋と東京税関(東京運上所)

 安政5年に徳川幕府が結んだ日米修好通商条約で江戸にも居留地が義務付けられた。明治元年に新政府によって築地鉄砲洲に居留地が造られた。江戸初期には鉄砲の形をした洲だったので、鉄砲洲と名付けられた場所であった。ここは大川(隅田川)が東京湾に注ぎこむ大川口に面している。


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【写真1】明石橋から東京税関を望む。月島がまだなく、海が広々としている。佃島は左手奥500m程の所にある。明治7〜10年頃。

【写真1】は築地居留地に渡る橋の一つである明石橋である。俗称をさむさばしと言う。橋の左奥にある建物は明治元年12月に東京運上所として造られた建物である。居留地に関わる様々な業務に関わった。明治5年11月28日に東京税関と改称。【写真1】で人が立っている奥はまだ海が広がっている。ここに月島1号地(明治25年)、月島2号地(明治27年)が埋め立てられるのだが、この写真は明治7〜10年頃のものだから写っていない。だから当然もんじゃ焼きの店だってない。

 さて、平成3年の古い話をする。写真を撮りに明石町に行った時、中央区明石町資料室で「日本の電信のあけぼの展」を開催していた。街角に貼られていたポスターに昇斎一景が描いた「東京名所四十八景築地明石橋」の錦絵が刷り込まれていた。絵の構図が【写真1】とよく似ているのに驚き、展示会を見学におよんだ。明石町資料室で【写真1】をご覧にいれ室長の清水正雄氏に話を聞いた。明治2年12月25日、築地運上所と横浜裁判所との間で、日本で初めての電信業務が開始されたという。荷揚げした品物の税額が横浜と差があってはいけないので、いの一番に横浜との間に電信が引かれたのだそうだ。

 なるほどと思い写真を見ると、橋の先の右手に電信柱が写っていた。とすれば、この電信柱は日本で最初に建てられた電信柱の1本ではないかと1人悦にいったものである。資料室には成り行き上写真のコピーを寄贈し、清水氏からは以後ご教示を受けたり、古写真をお貸ししたりしている。


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【写真2】明石橋から新湊橋を望む。【写真1】と同じ時の撮影と思われる。右が東京税関の荷揚場。

 【写真2】は明石橋の上から東北方向(【写真1】で左手)を写した写真である。右が東京税関(旧運上所)で、荷揚場と荷物改所が写る。中央奥に見える橋が新湊(しんみなと)橋である。この橋の右手にアメリカ公使館が明治7年に麻布善福寺から移転してくる。橋の右奥の建物が小さくて見にくいがアメリカ公使館である。

 鉄砲洲は交易の場として相当に発展するものと期待されたのだが、予期に反し、外国人の客は存外少なかった。外国人を当て込んだ新島原遊郭も営業が振るわず、明治4年には見切りを付けて新吉原に撤退する。築地ホテル館は明治5年の大火で焼失してしまう。

 その後、堀割に囲まれた居留地一帯は明石町と呼ばれるようになり、エキゾチックな雰囲気を醸し出す静かな街となっていった。


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【写真3】平成20年11月13日現在の【写真1】と同じ場所。治作が東京税関のあった場所らしい。信号の奥左側に「電信創業記念碑の由来」、治作の前に「東京税関発祥の地」の碑がある。

(写真・文 石黒敬章)

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