第15回 新橋から銀座通りを望む

 汐留川(新橋川)に架かる新橋は、その名にもかかわらず架橋は相当に古い。日本橋や京橋と同じ慶長年間の初めの創架らしい。新橋と言っても旧い橋なのである。宝永7(1710)年9月、ここに芝口御門が造られると芝口橋と改められる。しかし享保9(1724)年に芝口御門は焼失。それ以降は新橋にもどるが芝口橋とも呼ばれていたらしい。


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【写真1】木橋時代の新橋。明治10年頃。

 【写真1】は明治10年頃で木橋時代の新橋だが、親柱には「芝口橋」と表示されている。そして各橋柱の上には葱坊主のような形の、擬宝珠(ぎぼし)が載っている。江戸城の御門橋は擬宝珠で飾られていたが、江戸市中の御入用橋で擬宝珠があるのは、東海道の日本橋、京橋とこの新橋だけである。それだけ重要な橋であった。


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【写真2】鉄道馬車が通る鉄橋になった新橋。

 新橋は明治32年4月、鉄橋に改架される。【写真2】は鉄橋に改架された後の新橋である。まだ鉄道馬車が走っている。東京馬車鉄道会社は東京電車鉄道会社と改名し、明治36年8月22日より品川―新橋間に、同年11月25日より新橋―上野間に電車を走らせた。右端の建物は既に「恵比寿ビヤホール」になっている。明治32年8月4日開店の日本初のビヤホールである。名称を決めるにあたって「ビヤルーム」「ビヤサルーン」「ビヤバー」などが候補に挙がったが、結局「ビヤホール」の案を飲んだ、否、呑んだとのことである。

 左には擬宝珠形の時計塔を持った帝国博品館勧工場(かんこうば)が建っている。まあ今の百貨店のようなものだった。明治32年10月の創業である。設計はカペレーチの助手を務め、アメリカに渡り耐震建築を学んだ伊藤為吉。この写真は帝国博品館勧工場開店後であり、電車開通以前なので、明治32年10月〜明治36年8月の撮影となる。


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【写真3】電車の通る明治40年頃の新橋。

 【写真3】は電車が通った明治36年8月以降の新橋。蛇足だが【写真2】で触れた「恵比寿ビヤホール」は、平成12年3月にオープンしたサッポロビール新九州工場内に復元された。その際にこの【写真3】の絵葉書をお貸しした。復元されたビヤホールの向かい側の壁いっぱいに拡大され、雰囲気づくりに一役買っている。


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【写真4】新橋から銀座天下堂を望む。明治42〜大正元年。

 【写真4】では写真中央、出雲町2番地に「天下堂銀座店」が建っている。開店は明治42年11月である。この銀座天下堂は大正7年10月に閉店し、共同火災保険鰍ノ売却している。大正元年9月9日の消印の押された同じ絵葉書もあることから、【写真4】は明治42年11月〜大正元年9月の撮影となる。


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【写真5】震災直前の新橋。

 【写真5】は大正7年に天下堂が共同保険鰍ノ売却した後の写真。手前の帝国博品館勧工場は、大正10年に3〜4階を増築したため時計塔は失われた。増築の際、銀座で初めてのエレベーターが設置され評判になった店である。しかし大正12年の大震災で焼失する。よって大正10〜12年の撮影である。


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【写真6】現在の新橋。平成22年1月撮影。

 【写真6】は現在の新橋。汐留川は埋め立てられ、首都高速道路となった。左の白いビルが博品館。震災後、百貨店として復興するが昭和6年に閉店。昭和53年、創業80周年を記念して8階建てのこのビルを新築し事業を再開した。


(写真・文 石黒敬章)

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