第14回 新富座


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【写真1】開場から間もない頃の守田座。腰は海鼠塀で表と裏の屋根は瓦葺きで他はブリキ張りだった。便所を設け茶屋に行って用を足す不便をなくした。明治5〜7年、スティルフリート撮影と思われる写真。

 江戸時代の終わり頃、江戸三座は浅草猿若町に封じ込まれていた。このまま三座揃って浅草の片隅にいたのでは将来性はないと、明治になると再度繁華街に移ることになる。その先陣を切ったのが十二代守田勘弥である。明治4(1871)年6月に新島原遊郭が吉原に移転したのを機に、空地になった新富町3丁目(現在は2丁目)に守田座を移すことにした。東京府から転座の許可を得たのが明治5年2月。早速起工して落成したのが同年10月だった。【写真1】は落成から間もない頃の守田座である。表櫓に「もりたかんや」とある。

 守田座は外国人や洋装の人も観劇することを考慮し、日本で初めて椅子席が用いられた劇場だった。とはいえ、椅子席は僅か20脚程度だったそうだが。開場式には7代目河原崎権之助(後の9代目市川団十郎)を筆頭に、市川左団次、中村仲蔵、中村翫雀(かんじゃく)、岩井半四郎、河原崎邦太郎など人気役者が顔を揃えたこともあり、初日以来大入りが続いた。それを見た他の両座も猿若町からの転座決めることになった。明治8年(或いは7年)、守田座は新富座と改称するが、明治9年に焼失する。


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【写真2】明治11年6月5日に新築なった新富座。絵看板がずらりと並び客が眺めている。明治11〜15年頃。

 明治11年6月7日、さらに近代的設備を誇る新富座が開場【写真2】する。舞台の内外に日本で初めてガス灯を用いた劇場だった。表櫓や吊看板を廃止して表をすっきりとさせた。前売りなど新方式も導入して経営の刷新も図った。しかしながら、明治22年に歌舞伎座が開場すると、次第に新富座は振るわなくなり衰退していく。明治28年、建物代4千円、座主権3千円で人手に渡る。その後は深屋座、都座など頻繁に座名を変えるが、明治31年に再度新富座に戻る。明治43年になると、京都から進出した松竹が買収した。


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【写真3】大正時代の新富座の写真絵葉書。震災前で、この時は松竹の経営になっている。

 【写真3】は大正時代で、松竹になった新富座である。海鼠塀、絵看板、鼠木戸がまだ健在で、芝居の雰囲気を留めている。明治38年10月につくられ、大正時代に大流行した「電車唱歌」に、「新富町には新富座 芝居見物するもよしここは築地よ名も高き西本願寺のあるところ」と歌われている。しかし震災で焼失する。

 震災の翌年(大正13年)に再建。この時から映画館新富座として再スタートをきることになる。


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【写真4】昭和3〜5年頃の新富座。松竹の封切映画館になった。右のビルは松竹本社。

 【写真4】は映画館になった新富座である。昭和14年に廃座するまで、ここは松竹の封切館であった。右隣のビルは松竹の本社(昭和2年〜36年)。左端に松竹の幟が立ち、その右下に書いた文字が「斎藤達雄」と判読できる。斎藤達雄は松竹映画に数多く出演している俳優である。


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【写真5】平成22年1月現在の同じ場所。京橋税務署新庁舎は昭和25年2月1日に落成している。

 【写真5】は現在、築地橋を背にして撮影。新富座の場所は京橋税務署、右隣(手前のビル)の松竹本社だった場所は菊正宗酒造東京支店となっている。


(写真・文 石黒敬章)

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