第12回 東京証券取引所

 東京の中心地である日本橋を控えた兜町は水運の要にあった。明治新政府は維新の功労に報いる意味もあって、この辺りの一等地を三井家などに払い下げた。兜町の周辺には三井組ハウス(後の第一国立銀行)・三井物産・抄紙会社(後の王子製紙)など、三井系の企業が進出した。政府も公債や株式などの売買が必要と、明治11(1878)年5月に「株式取引所条例」を制定、それに基づいて同年5月15日、兜町に株式会社組織の東京株式取引所が設置された。


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【写真1】明治16年10月に取引開始の鎧橋袂の東京株式取引所。建物の左に第一国立銀行が垣間見える。

 東京株式取引所はまず兜町6番地の第一国立銀行所有の家屋を購入し、同年6月1日より立会いを開始した。しかし建物は老朽はなはだしく、しかも手狭であったため、兜町4番地の兜町米商会所(べいしょうかいしょ)の建物を購入し、明治16(1883)年9月30日に移転。10月1日より営業を開始した。その建物は【写真1】で、写真で見ると洋風に見えるが、構造は土蔵造りで、立会人も和服だったそうである。


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【写真2】明治40年代の東京株式取引所の絵葉書。右手が鎧橋になる。

 日清戦争が終わると市場規模が拡大する。それまでは一日の売買高が4、5千株に過ぎなかったものが、一躍1万4、5千株になったこともあり、建物の新築が必要になる。競争入札で清水満之助が工事を請け、明治32年4月2日に落成式を挙げたのが【写真2】の建物である。地階は煉瓦造りだったが、他の部分は木骨造りで花崗石5段積みの側石を廻らせてあった。この建物は大正期に2度の火災で改築や増築をした。終には大正12(1923)年9月1日の関東大震災で、倒壊は免れたものの類焼し灰燼に帰した。


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【写真3】横河工務所が建造した東京株式取引所。前面が円筒形の堂々とした建物だった。下の4体の彫像は戦後の写真にはない。戦時中に供出してしまったものか。昭和10年頃。

 【写真3】は次の建物である。震災以前に横河民輔に依頼し、大正12年9月2日に起工したものだが、震災のため一時中断し、大正15年に再度着工した。市場の建物は昭和2(1927)年12月末日に竣工、事務所及び貸事務所の建物は昭和6(1931)年9月に竣工となる。花崗岩及び花崗擬岩で化粧を施した鉄骨鉄筋コンクリート造り。昭和57年まで存在し、馴染みのある名建築だった。


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【写真4】平成17年現在の東京証券取引所。

 大戦末期から終戦直後には取引を停止していたが、昭和24(1949)年東京証券取引所と名前を変えて再開した。昭和63(1988)年4月には現在の東京証券取引所ビル本館【写真4】が完成し、兜町一帯のランドマークとなった。コンピュータ導入による売買は平成2(1990)年から始まり、立会場から場立(ばたち)が消えていった。いまや全ての取引が電子化され、静かな立会場となった。場立の手振りで混雑を呈し、熱気ムンムンの取引を懐かしむ。


(写真・文 石黒敬章)

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