第11回 銀座6丁目

 明治5年、和田倉門内旧会津屋敷から出火した火災で、丸の内、銀座、築地一帯は灰になった。大蔵大輔井上馨と東京府知事の由比公正は燃えない街づくりを計画した。英国人技師トーマス・ウォートルスに設計監修を依頼し、銀座2階建て煉瓦街を誕生させた。明治6年10月京橋―新橋間が完成。建物はロンドン、街路はパリに倣うという抱負のわりには貧弱であったが、予算が無かったのだから仕方あるまい。明治7年12月18日には、文明開化の光、ガス灯も点灯した。

 しかし完成当初は、家賃が高い、雨漏りする、畳が敷けないなどと評判が悪かった。銀座が繁栄を誇るのは鉄道馬車が開通する明治15年頃からであった。

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【写真1】完成直後の銀座煉瓦街。明治6年か7年。日本で歩道が造られた最初の通りである。

 ところで、工事中の銀座煉瓦街の写真はまず見ない。私のところのコレクションで一番古いと思われる写真が【写真1】である。まだガス灯が設置されていないので、明治7年12月以前である。人通りが全く無い銀座である。中央に羽織を羽織った人がただ1人、立小便をしている奇妙なポーズで写っている。撮影意図は不明である。

 ちなみにこの写真は現在の銀座6丁目、松坂屋の一番新橋よりの辺りから、北の銀座4丁目方面を望んだものである。20〜30mほど背後に現交詢社通りがある。左側の屋根が小高い建物が島田組(後に東京日日新聞発行の日報社が入居)である。暫くすると、入居者により看板や唐破風の屋根が取り付けられ改築されていくが、この頃は全く建設直後の煉瓦外の姿を留めている。街路樹には松(四辻)、桜、楓、槙などが植えられたという。


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【写真2】明治40年代の銀座通り。右が天賞堂。左奥の塔は尾張町角の服部時計店。

 【写真2】は明治40年代と思われる絵葉書写真である。【写真1】と偶然同じ場所なので面白い。明治12年に印刷業として創業の銀座天賞堂の店構えである。その後高級貴金属店として繁盛を極める。いち早くショーウインドーを設えたことでも有名になった。天賞堂は戦後、銀座4丁目(晴海通り)に移転するまでここにあった。この頃になると、煉瓦の建物をベースにしてはいるが、いろいろと装飾を取り付けて店舗を華やかに見せている。2階の回廊には「ニケの女神」風の石像も見える。街路樹は柳になっている。松や桜は何故か直ぐに枯れてしまうので次第に柳を植えるようになった。明治17年頃には全てが柳の街路樹になったらしい。


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【写真3】現在のほぼ同じ場所。松坂屋に隣接して平成15年3月末、プラダが開店した。平成16年12月24日撮影。

 【写真3】は現在【写真1】【写真2】とほぼ同じ場所を撮ったものである。交詢社通りから20mほど北の地点から撮影。通りの広さや交わる道筋は明治期と変わっていないので、撮影位置を同定することは可能である。大正13年12月に新築なった国光生命ビルを借り受けて開店した松坂屋が大きくなり、銀座6丁目の通り沿いの大半を占めるようになった。

 いまや世界から有名ブランドショップが続々と銀座に進出している。銀座は海外ブランドにとって日本での顔であり、東洋全体に対するショールームにもなっている。


(写真・文 石黒敬章)

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