第10回 築地の米国公使館

 安政5(1858)年日米修好通商条約が締結されると、翌年徳川幕府はハリスに麻布善福寺を公使館として貸与した。麻布善福寺に米公使館があったことは、歴史書などに多く取り上げられて有名だが、その後築地居留地に移ったことはあまり知られていないようだ。

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【写真1】築地明石町にあった米国公使館。明治7〜8年頃。右の石油灯の柱に明石町と表示がある。

 【写真1】は近年入手した名刺判の写真である。裏面に築地明石町とメモがある。築地にあった時の米国公使館と思い、明石町資料室の清水正雄氏にコピーを送って確かめてみた。清水氏によれば、アメリカ公使館の土地は明石町居留地の1番・2番・21番・22番の4口で、22番住人のバチェルダーが明治3年6月3日に落札入手したそうである。彼は建築士だが、開拓使に船を売ったりするブローカーもやっていた。アメリカ公使館に貸与した経緯は川崎晴朗著『築地外国人居留地』*-1を参考にとご教示を受けた。その本を読むと、開拓使最高顧問ケプロンの斡旋でバチェルダーは明治7(1874)年2月23日、居留地1、2番の土地と建物を米ビンガム公使に貸与する契約をする。この際バチャルダーは21番にあった建物に移り住むことになった。さらに同年5月15日までに4部屋の建物を新築し、これを公邸として貸与させるとある。米国公使館は後に21、22番の土地も借り、さらに3番も賃貸することになるという。

 このことを踏まえて清水氏は、「善福寺から明石町に移転してからあまり時を経ていない明治7〜8年頃の米国公使館で、左側の海鼠壁の建物がバチェルダーの住んだ別棟」と考えているそうだ。


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【写真2】明治10年代と思われる米国公使館。名刺判写真。

 【写真1】は新湊橋から東に向いて写したものであり(手前は新湊橋の欄干)、この方向から見ると左(北)にある建物が21番になる。『大日本全国名所一覧』*-2の中に明治10年前後の写真があるが、既に左の海鼠壁の建物は右と似た建物に建て替えられている。本写真は築地の米国公使館の中で、私の知る限りいまのところ最古の写真である。

 【写真2】は明治10年代と思われる写真。左手が新湊橋になる。写している位置が異なるが、建物は改築増築され、塀も新しくなっている。


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【写真3】米国公使館の移転後はホテル・メトロポールとなった。右は海岸通りと隅田川。明治38年頃か。

 米国公使館は明治23年5月、榎坂町(現赤坂1丁目)に移転するまでこの地にあった。移転後、この建物は横浜のクラブ・ホテルが建物と借地権を譲り受け、クラブ・ホテル東京支店となり、後にホテル・メトロポールと改称される。【写真3】はホテル・メトロポールだった頃の絵葉書である。


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【写真4】平成17年1月現在の同じ場所。新湊橋がかつてあった辺りから撮影。右の聖路加レジデンス棟の所にアメリカ公使館があった。建物の裏が隅田川になる。

 明治40年、帝国ホテルと合併し帝国ホテル築地支店となるが、合併後も通称のメトロポールのままで営業した。しかし収益が悪化し、明治43年末に支店の廃止が決定し翌年売却される。しばらく空地となっていたが、大正3年に聖路加病院がこの地及びその周辺を購入*-3。現在は聖路加ガーデンとなって2棟の高層ビルが建つ【写真4】。米国公使館(ホテル・メトロポール)があった場所は、東京新阪急ホテルが入居する8階建ての聖路加レジデンス棟になっている。


*-1 『築地外国人居留地』川崎晴朗著2002年雄松堂出版発行。
*-2 『大日本全国名所一覧』マリサ・ディ・ルッソ、石黒敬章監修、2001年平凡社発行。
*-3 2000年築地居留地研究会編集発行の『築地居留地@』で長岡祥三執筆「ホテル・メトロポール略史」の項を参照。


(写真・文 石黒敬章)

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