第9回 京橋から銀座を望む

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【写真1】明治34〜36年撮影の京橋。早朝のラッシュ時である。

 京橋は日本橋と同じ慶長8(1603)年に架けられたとされる。京橋の名は、日本橋から京に上るときまずこの橋を渡るからとか、京から来た人がこの辺りで遊女屋を始めたからとか諸説あるそうだ。数多い江戸の橋(江戸城に渡る橋を除く)で、擬宝珠(ぎぼし・欄干の柱の頭に付けたねぎ花の飾)で飾られたのは、日本橋・新橋と京橋の3橋にすぎなかった。このことも江戸のメインストリートであったことを表している。

 江戸時代の京橋川河岸は竹河岸(竹商人が居た)・大根河岸(だいこがし・青物市場があった)などと呼ばれ、商人・職人が混在して住んでいた。といっても結構寂れた場所だったらしい。京橋や銀座通りが隆盛を迎えるのは、明治になって鉄道が新橋駅に開通し煉瓦街が造られてからである。

 【写真1】は煉瓦街誕生から27〜29年ほど経った写真である。橋がまだ真新しい。京橋は明治8年3月に木橋が流行の石橋に改架される。そして明治34年に再び改架される。写真は明治34年に改架された石橋である。通りには鉄道馬車が連なっている。鉄道馬車が電車に変わるのは明治36年11月である。よってこの写真は明治34〜36年に撮影されたことになる。左手に「広告問屋廣目屋」と書いた扇形の看板が見える。明治16(1885)年に高橋金次郎が始めた宣伝屋である。楽隊による広告宣伝などを行った。「廣目屋」の屋号は仮名垣魯文の命名とのこと。橋向こう右手は、読売新聞発行の日就社。明治10年5月、芝琴平町からここ銀座1丁目に移転してきた。

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【写真2】明治42〜45年の京橋。これも左から光が当たり朝と分かる。

 その日就社は明治42年3月、時計塔のある3層楼に改築される【写真2】。3月15日、16日には河岸に張った大幕に社屋より活動写真を映したという。本絵葉書写真は表面に明治43年8月の消印があり、改築直後の撮影と思われる。


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【写真3】大正11〜13年頃の京橋。左の第一相互館は東京一高かった。大同生命ビルから撮影。これは右に太陽があるので夕刻である。

 【写真3】は大正時代の京橋である。やはり銀座方面を望んでいる。左手前の建物は辰野・葛西事務所設計で、大正10年8月竣工の第一相互館。橋向こうは左から「池田茶店」「玉木額縁店」「東京美術館」「桜田機械店」「日華生命保険・日本火災保険」と並ぶ。その先、蓄音機を聴いている壁画のある大きめのビルは「日本蓄音機商会」である。右手は日就社だが時計塔がない。明治45年7月に家相が悪いと改築され、時計塔は取壊されてしまったのである。


【写真4】現在の京橋。左の大きな白いビルはテアトル銀座でその右が銀座池田園ビル。首都高速の下、右手に見える海老茶の小さな建物が銀座1丁目交番。

 【写真4】は現在の京橋。橋はなくなっている。第2次世界大戦後、瓦礫処理のために京橋川は埋め立てられ、京橋は昭和34年(1959)に取壊された。いまは首都高速道路が京橋川のあった上に乗っている。何もかも変わってしまった。強いて変わっていないものを探すと、橋向こう左手の池田茶店が銀座池田園ビルになっていること、【写真1】〜【写真3】で右手にあった巡査派出所が、いまも銀座1丁目交番として残っていることくらいのものか。


(写真・文 石黒敬章)

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