第6回 一石橋から日本銀行を望む

 現在日本銀行のある辺りはかつて本両替町(現日本橋本石町2丁目)といった。金座を中心に両替商が軒を並べていた所である。慶長6(1601)年に大判・小判・二分金・一朱金などの金貨を鋳造する金座が設立された。後藤庄三郎が金座役を命じられたので、代々後藤家がその元締めとなった。本両替町の南に流れる日本橋川に架かる橋は、北にその後藤庄三郎、南側に呉服所の後藤縫殿助(ぬいのすけ)の屋敷があったので、五斗(後藤)と五斗(後藤)で一石橋と名付けられたという(異説もある)。

 日本銀行は明治15(1882)年永代橋際の北新堀町に産声を上げたが、明治29年金座跡の本両替町に移転した。辰野金吾設計の花崗岩造り、地上3階地下1階の豪壮な建物である。明治23年に起工し、完成までに6年の歳月を要している。それまでは硬すぎて建築には使用されることがなかった瀬戸内海産の石が使われたそうである。

 日本銀行は金座跡に金吾が造った。やはり金に縁がある。それなのに何故「日本金行」でなく「日本銀行」なのだろう。明治4年に第一国立銀行が出来るが、その時日本には銀行という言葉はなかった。当時日本は銀本位制だったので、それで銀行と名付けたらしい。名付け親は第一国立銀行の頭取になった渋沢栄一だといわれる。「行」は同業者組合の意味だった。同年、新貨条例が交付され金銀複本位制となるが有名無実で、実際は銀本位制が続いた。日本が金本位制に移行するのは、明治30年からである。その時「日本金行」と改称してもよかったのだろうが、金行では語呂が悪いからか、銀行という言葉が馴染んでしまったからか、いまだに「日本銀行」のままである。

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【写真1】一石橋際から外堀に架かる常盤橋を望む。明治初年の名刺判写真。

 【写真1】は一石橋の袂から常盤橋を望んだもの。右手が一石橋になる。まだ日本銀行が建設される前であり、当然日本銀行の姿はない。火見櫓が江戸時代の面影を残している。


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【写真2】一石橋から日本銀行。一石橋は明治37年に鉄混用の木橋に改修されたらしい。明治40年代発行の絵葉書。

 【写真2】は一石橋から見た日本銀行(左)である。中央は横浜正金銀行東京支店。本店は横浜で明治13年に創立。資本金を不換紙幣でなく正金(銀貨)で募集し、取引も正金で行ったので正金銀行と命名したという。本両替町の東京支店は明治32(1899)年4月に開業。昭和21年東京銀行と改称し、平成8年に東京三菱銀行、平成18年に三菱東京UFJ銀行になった。手前の赤煉瓦の建物は明治20年創業の東京火災海上運送保険である。ここは北鞘町になる。


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【写真3】大正時代の絵葉書。左奥が常盤橋。左は外堀で一石橋より右に流れるのが日本橋川。

 【写真3】は大正時代に一石橋から日本銀行を望んだもの。一石橋は大正11年に鉄筋コンクリートの花崗岩張りアーチ橋に改架されている。この一石橋は鉄筋コンクリートに改架される大正11年以前である。


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【写真4】現在。一石橋の向こう側、東京火災海上保険は東洋経済新聞社、横浜正金銀行は貨幣博物館(西側)と三菱東京UFJ銀行(東側)になった。1本残された親柱を入れて撮影。

 【写真4】は現在。一石橋は大正11年に鉄筋コンクリートの橋になったが、何度かに亘り大幅に改築され、平成9年には親柱1本を除いて全てが改築された。通常は「いっこくばし」と読むが、親柱の表示には「いちこくはし」とある。「いっこく」「いちこく」どちらでもいいようだ。


(写真・文 石黒敬章)

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