第5回 八重洲通りより東京駅を望む

 慶長5年(1600)、大分の臼杵にウィリアム・アダムス(三浦按針)やヤン・ヨーステン(耶楊子)を乗せたリーフデ号(当初はエラスムス号)がやってきた。日本に初渡来したオランダ船である。彼らは大坂(現大阪)で徳川家康と会見する。家康の覚えめでたく、後に江戸に屋敷を賜り、外交顧問となった。三浦按針の拝領屋敷のあった場所は昭和7年まで按針町(現日本橋室町1丁目と日本橋本町1丁目の一部)と呼ばれた。ヤン・ヨーステンは日比谷の堀端に屋敷を賜った。八重洲の地名はヤン・ヨーステンに因むという。『角川地名大辞典』によれば「八重洲のほかに八重洲(名所咄)・弥与三(紫の一本)・八代洲・冶容子(砂子)・弥養子・八代曽(新編江戸志ほか)などと書かれた。」そうである。

 昭和4年までは馬場先御門外や大名小路一帯を八重洲町と呼んでいたが、昭和29年から東京駅八重洲口の東側が八重洲1丁目2丁目となった。

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【写真1】八重洲口が開かれた時(昭和4年)の八重洲通り。日傘を差しているので夏である。「東京駅裏口に通ずる開成道路」と裏面にメモがある。左手前越前屋の看板は、拡大鏡で「越前屋假営業所」と読める。左は報知新聞の車。

 【写真1】は現八重洲通りと中央通りとの交差点から東京駅を望んだものである。八重洲通りは関東大震災の復興事業の一つとして造られ、昭和四年に完成した。写真裏面には「東京駅裏口に通ずる開成道路」とある。右奥の大きなビルは東京建物本社ビルで、昭和4年11月の竣工。まだ足場が組まれていて完成前である。よって撮影は昭和4年と思われる。

 八重洲口に鉄道会館完成(昭和29年)以前なので、煉瓦造りの駅舎が正面に見えている。写真ではよく分からないが、駅の手前にはまだ外堀があり、大正14年完成の八重洲橋が架かっているはずである。八重洲橋は明治17年に架けられたが、大正3年の東京駅開業に伴い撤去。関東大震災後、再度詩人木下杢太郎の設計で築造された。しかし外堀が昭和23年に埋め立てられ外堀通りになったため、橋も堀もいまは無い。

 左手前に越前屋とある。インターネットで調べると、越前屋は慶応元年の創業で「越前の福井から出てきた武士が真田紐を和装小物として商売を始めたのが始まり。」とあった。

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【写真2】東京駅八重洲中央口を望む。左手京橋1丁目側は手前から越前屋ビル、セントラルビル、八重洲ダイビルと並ぶ。八重洲通りの地下には昭和44年に大地下街が完成している。

 【写真2】は現在、同じ場所から撮った写真である。鉄道会館の奥に聳える高層ビルは平成19年4月27日竣工の新丸の内ビルヂングである。東京駅の空中権を購入して可能になった38階建て198mの超高層。そして右手の超高層ビルは、JR東日本や三井不動産などが共同で建設した205mのグラントトウキョウノースタワーである。鉄道会館に入っていた大丸はここに移転している。中央の鉄道会館は取り壊しの工事が始まっている。竣工時には規模日本一の駅ビルだった鉄道会館も、見納めの時が近づいている。

 また森ビル開発は八重洲1丁目の国鉄清算事業団より落札した土地に、八重洲口のランドマークを目指し、地上四七階地下三階の超高層タワーを建設する。まだこれからも八重洲周辺は変貌しそうである。


(写真・文 石黒敬章)

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