第4回 日本橋1丁目

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【写真1】明治44年10月1日竣工の白木屋呉服店。

 日本橋の南に位置する日本橋交差点から北を望んだ写真を並べてみた。日本橋北側の室町から続く大通りには大店や大問屋が軒を並べ、江戸を代表する繁華街だったところである。「江戸時代後期には書物、呉服、木綿、畳表問屋が集中。」(『東京都の地名』平凡社発行)したそうである。その中でも白木屋は寛文2(1662)年創業の大店だった。初代大村彦太郎が京都から江戸に下ってささやかな小間物店を開いたのが始まりである。開店から50年後の正徳元(1711)年、店内で井戸を掘ると良質の水が湧き出し、観音像が現れた。白木の名水と称し江戸名物になった。観音像は聖白木観音像と呼ばれ、店内に安置された。そうして白木屋は発展し、大正8(1919)年に株式組織に改め白木屋呉服店となる。称号の呉服店を外し白木屋になるのは昭和3(1928)年である。老舗を誇る白木屋呉服店だったが、明治36(1903)年10月、いち早く洋風店舗を新築し座売り方式から陳列方式に改めた。この時はかど店ではなかったが、その後に南側の店を手に入れ、明治44(1911)年10月に増築が完成する。5階建ての塔屋と地下室を持つ、和洋折衷の建物【写真1】となった。アメリカから取り寄せた板ガラスを用いたショーウインドーは三越呉服店より1年早く、中には生人形(マネキン)が飾られた。塔屋に昇る業界初のエレベータが設置され、入口はやはり業界で初めての回転式のドアだった。案内の金ボタンをつけた可愛いい少年店員が、おばさまたちの人気を誘ったという。

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【写真2】大正8年と思われる日本橋白木屋呉服店前。

 【写真2】は大正7年3月に改築された白木屋呉服店から日本橋を望んだもの。路面電車と青バスを交通巡査が捌いている。青バスが現われたのが大正8年3月で、日本橋白木屋前に手動式の交通信号機(パタン信号)がお目見えしたのが同年9月とのこと。写真には信号機が写っていないので、大正8年3〜9月の撮影か。


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【写真3】震災後復興中の日本橋。白木屋呉服店は仮店舗で営業中。

 白木屋呉服店は震災で焼失。【写真3】はその復興途上で、仮店舗で営業中の白木屋呉服店である。石本喜久治設計で本建築の百貨店(第1期)を竣工させるのは昭和3年である。昭和6年に全館完成。【写真4】は昭和10年頃の白木屋である。

 この建物が昭和33年に東急百貨店と合併し、平成11年に閉店するまで続く建物となった。


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【写真4】昭和10年頃の白木屋百貨店。昭和3年に呉服店を削除して(株)白木屋と改称。

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【写真5】平成20年10月現在の日本橋交差点。東急百貨店跡地は高さ120mの「日本橋1丁目ビルディング」となった。

 いま跡地はどうなっているかというと、平成16年3月30日にオープンした地上40階地下4階のオフィスビル「日本橋1丁目ビルディング」【写真5】が建っている。ビル内には「COREDO日本橋」というファッションやグルメなど商業施設が入居。早稲田大学大学院も入居。英語で核という意味のCOREと日本語の江戸を組み合わせた名称だという。

 東京の街はオッフィス街、ショッピング街、住宅街といった区分けでなく、何でもある複合的な町づくりで各地域が競い合っている。

 ところで、聖白木観音像を祀った観音堂は東急百貨店の屋上にはあったが、いまはどうしたのだろうか。


(写真・文 石黒敬章)

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