第3回 日本橋兜町第一国立銀行と海運橋

 かつては日本橋川の江戸橋の下流の所から南に分流して楓川という掘割があった。戦後掘割は埋められ、首都高速都心環状線となってしまったので、面影は全く残っていない。

 楓川が日本橋川から分流し、最初に架かる橋が海運橋(海賊橋とも呼ばれた)である。その東詰めに明治6年7月20日に開業したのが第一国立銀行だった。2代目清水喜助の設計で、三井組が明治5年6月に竣工させた三井組ハウスだったが、諸般の事情で第一国立銀行に譲り渡したのである。木骨石張りの和洋折衷の建物で、瓦、柱、手摺などはブロンズという豪華版であった。監査役は渋沢栄一。兜町周辺は東京の中心である日本橋を控え、水運の要所に位置したのである。渋澤は兜町一帯が経済の中心地になると見込んで、渋澤邸も建築している。ところが時代は水運から陸運へと変わり、オフィス街の中心は明治中期頃より、次第に新橋駅や東京駅を中心にした丸の内に移っていくのである。とは言え、兜町には証券取引所があり、証券会社や銀行が軒を連ね、今も金融の中心地であり続けている。その嚆矢は第一国立銀行にあったと思われる。

写真
【写真1】明治5〜6年の三井組ハウス。写真台紙に墨筆で「三井組ハウス」とあり、第一国立銀行になる明治6年8月以前の撮影である。

 【写真1】は有名な写真師内田九一が撮影した明治5〜6年頃の写真である。海運橋は明治8年6月に石橋に改架されるので、それ以前の撮影である。第一国立銀行は写真ばかりでなく錦絵にも描かれ、たちまちにして東都名物となった。しかし当初は銀行なんてものは何をする所だか分からないので、玄関から賽銭を投げ込んだ老婆もいたそうである。


写真
【写真2】明治初年の楓川。左が本材木町1丁目、右が坂本町で、海運橋より先が兜町になる。楓川の突き当りが日本橋川。

 【写真2】は海運橋と下流に架かる新場橋の間より(現永代通りの辺りからか)海運橋を望んだものである。最近入手した写真である。退色しているがこの様な場所を撮った写真は非常に珍しい。楓川の先に架かるのが海運橋でまだ木橋である。ということはやはり明治8年以前と分かる。その右手に第一国立銀行が見える。海運橋の背後に白くぼやけているのは日本橋川北岸に並んだ倉庫である。この頃はまだ物資輸送は海運が中心であり多くの荷舟が写っている。


写真
【写真3】明治末期の楓川。石橋となった海運橋の先に、明治18年3月に竣工した兜橋があるのだがこの写真では見えない。

 【写真3】は明治37〜38年頃の絵葉書写真。偶然【写真2】と同じ場所から同じ方向を撮っている。海運橋は石橋になり、右手の第一国立銀行は明治30年に取壊されたため、業務を引き継いだ第一銀行(現みずほ銀行)の建物になっている。楓川両岸にあった細い通路はなくなり、川幅一杯まで建物が建てられている。


写真
【写真4】新場橋より北を望む。平成16年1月現在、【写真2】【写真3】より100m程下がった位置からの撮影となる。この写真上部に永代通りがあり【写真2】【写真3】はその辺りより撮ったものと思われる。

 【写真4】は、今は楓川でなく首都高速道路を跨ぐ橋となった新場橋の上から北を望んだもの。川の輸送が主力だった明治時代と異なり、現在は陸運が取って代わった状況をよく表している。第一国立銀行の跡地に建つみずほ銀行の建物は、コンクリートの中に埋もれてしまい、ここからではどこにあるのか分からない。みずほという銀行名は、水のある運河の前にあった方が似合ったのになあと思う次第である。


(写真・文 石黒敬章)

編集部おすすめ!石黒敬章氏の本

Copyright © presona. All rights reserved.