第1回 尾張町交差点(銀座4丁目交差点)

 京橋から新橋までの中央通りを銀座通りと呼ぶが、明治・大正の頃は4丁目までしかなかった。銀座を埋め立てた藩名を取った尾張町・加賀町・出雲町や、竹屋職人で一町をなしていた竹川町などであった。その由緒ある町名を廃止して、銀座が8丁目までなるのは昭和5年3月になってからである。

 銀座の古い写真を集めてみると、尾張町交差点(銀座4丁目交差点)から京橋方面を写したものが特に多いようである。銀座通りの中心であること。銀座のシンボルとなった服部時計店や山崎高等洋服店が交差点の北側(京橋側)に出来たことなどが挙げられる。それに写真は昼頃に撮ることが多く、交差点の南側から北側を写した方が、逆光にならずに撮りやすかったこともあるのだろう。

 そこで交差点から京橋に向いて銀座通りを写した写真を年代順に紹介してみよう。

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【写真1】明治10年代の尾張町交差点。名刺判写真。

 【写真1】は現日産銀座ギャラリーのある辺りから撮影した写真。左端の建物は成島柳北の朝野新聞社である。服部時計店がこの場所に移転(明治27年)する前である。その右、松ノ木の後ろの店は人力車の「秋葉大助商店」(現木村屋の場所)。右手前の建物には「朝野新聞別館」「絵入朝野新聞」とある。それで明治16年1月以降の撮影と分る。


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【写真2】鉄道馬車時代の尾張町交差点。六切大手彩色の横浜写真。

 【写真2】は金幣写真館で発売の横浜写真(横浜で売られた土産写真)の一葉。尾張町交差点から京橋方面を望んでいる。明治15年6月25日に開通した鉄道馬車が写っている。並木は柳になっている。当初は松・桜・楓などが植えられたが、枯れてしまうため、明治10年頃から柳が植え始められた。すべてが柳に変るのは明治17年だったという。【写真2】は柳の街路樹なので、【写真1】よりは新しい。鉄道馬車の上に見える塔は、明治9年に出来た京屋時計店銀座支店の時計塔。現三菱東京UFJ銀行の場所である。左端には「秋葉大助商店」が見えている。


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【写真3】明治末年の絵葉書。

 【写真3】は明治末年の絵葉書である。この頃になると尾張町交差点の両横綱、服部時計店(左)と山崎高等洋服店(明治38年開店)を左右に配したこうした写真絵葉書が主流になる。この絵葉書には1909年2月のスタンプが押されているので、尾張町新地(右手前)の建物は「東京毎日新聞」と思われる。明治44(1911)年8月10に、この場所にはカフェー・ライオンがオープンする。


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【写真4】銀座通り・銀座三越百貨店・松屋百貨店 昭和5年か6年の撮影。

 【写真4】は昭和初期の絵葉書。右の三越銀座支店は昭和5年4月10日の開店。左の服部時計店は昭和7年6月に竣工するのだが、まだ建設中である。よって昭和5〜7年の撮影。中央の建物は大正14年5月に神田から進出した松屋呉服店である。まだ自動信号機がなく、三越の前で巡査が手動で交通信号を操作している。


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【写真5】平成20年2月17日現在の銀座4丁目交差点。

 【写真5】は平成20年2月17日の東京マラソン開催時の銀座4丁目交差点。服部時計店は昭和22年に和光となった。銀座4丁目周辺は日本一地価の高いことでも有名である。


(写真・文 石黒敬章)

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