東照宮縁起によれば、徳川家康は「我れ死後は遺骸を久能山に納め、葬儀は江戸増上寺で営み、位牌は三河大樹寺に立て起き、一周忌を過ぎてから下野日光に小さき堂を建て勧請し、関八州の鎮守にせよ」と遺言したとある。家康は元和2(1616)年に亡くなると、駿河国久能山に埋葬されるが、翌3年社殿が完成した下野国日光に改葬された。朝廷より「東照大権現」の神号と「正一位」の位階を賜った。当初は神仏習合で祀られ東照社と称した。三代将軍になった家光は、寛永13(1636)年に大改修を完成させる。正保2年(1645)、後光明天皇から宮号が宣下され東照社は東照宮と改称。幕藩体制を維持するため、東照宮への信仰は徳川幕府への忠誠心を高める重要な要素となった。それで日光を中心に名古屋・和歌山・水戸の御三家や家康先祖の出身地とされる現群馬県太田市の世良田など、全国各地に500以上東照宮が誕生することになる。江戸では江戸城内紅葉山、浅草浅草寺境内(寛永19年焼失)、芝増上寺境内と、この上野などである。 上野東照宮は寛永4年(1627)藤堂高虎が下屋敷内に造営。その後、将軍徳川家光が慶安4年(1651)現在に残る社殿を建立した。日本で唯一の金箔を貼った唐門や本殿などが、明治40年に国宝に指定されている。 【写真1】は明治中期の参道を写した横浜写真。境内には諸大名が献納した銅灯篭50基、石灯篭280基が並んでいた。中央の神明鳥居は寛永10(1633)年に酒井雅楽頭忠世が寄進。だが何故か天和年間に地中に埋められてしまった。享保19(1734)年、忠世の孫である酒井忠知が掘り出して再建したとされる。写真を拡大して読むと、左の柱に「寛永十年癸酉四月十七日厩橋侍従酒井雅楽頭源朝臣忠世」と刻字されている。また右手の柱に「奉寄進石華表一基東叡山 東照大権現寶前 得鉅石於備前国迎慈南海運千當山 陽推而奉建」と刻まれており、石は備前国から運ばれたことが分る。 【写真2】は明治末の明神鳥居。鳥居の手前に【写真1】ではなかった石段が造られた。 【写真3】は現在の明神鳥居。享保19年(1734)に再建の鳥居も現存。昭和17年鳥居と銅燈籠は国宝に指定された。左の柱裏面には「享保十九年甲寅十二月十七日厩橋城主従四位下酒井雅楽頭源朝臣忠知」と酒井忠知が再建した旨の刻字がある。 【写真4】は明治中期の唐門と本殿。日本唯一金箔の唐門の柱には昇竜・降竜などの作品が左甚五郎によって彫られている。本殿は慶安4年に造られたもの。 【写真5】は平成15年4月6日現在。桜満開の日曜とあって、参拝と見物客で大賑わいだった。
【写真1】上野東照宮の明神鳥居 明治中期の横浜写真 【写真2】明治末期の明神鳥居。 【写真3】平成19年6月27日現在の明神鳥居。 【写真4】明治末期の唐門と本殿。 【写真5】平成15年4月6日現在の唐門と本殿。
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