台東区 今昔物語 *-イマムカシモノガタリ-*

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江戸文化風俗発祥の歴史と伝統に培われた街、台東区。
ちょっと昔にタイムスリップしてこの台東区を散策してみましょう。

***石黒敬章(いしぐろけいしょう)プロフィール***

昭和16年生まれ。昭和39年早稲田大学商学部卒業。
東京12チャンネル(現テレビ東京)に勤務のあと、
昭和41年、石黒コレクション保存会設立。
世界の蚤の市を取材する傍ら、集めた骨董品による展覧会を開催し、
珍品マニアとしても知られる。幕末・明治期の写真を収集。
ゆうもあくらぶ事務局長、日本写真芸術学会評議員。

36上野東照宮
35上野動物園
34浅草寺ほおずき市
33上野の博覧会(その2)
32上野の博覧会(その1)


36上野東照宮

東照宮縁起によれば、徳川家康は「我れ死後は遺骸を久能山に納め、葬儀は江戸増上寺で営み、位牌は三河大樹寺に立て起き、一周忌を過ぎてから下野日光に小さき堂を建て勧請し、関八州の鎮守にせよ」と遺言したとある。家康は元和2(1616)年に亡くなると、駿河国久能山に埋葬されるが、翌3年社殿が完成した下野国日光に改葬された。朝廷より「東照大権現」の神号と「正一位」の位階を賜った。当初は神仏習合で祀られ東照社と称した。三代将軍になった家光は、寛永13(1636)年に大改修を完成させる。正保2年(1645)、後光明天皇から宮号が宣下され東照社は東照宮と改称。幕藩体制を維持するため、東照宮への信仰は徳川幕府への忠誠心を高める重要な要素となった。それで日光を中心に名古屋・和歌山・水戸の御三家や家康先祖の出身地とされる現群馬県太田市の世良田など、全国各地に500以上東照宮が誕生することになる。江戸では江戸城内紅葉山、浅草浅草寺境内(寛永19年焼失)、芝増上寺境内と、この上野などである。
上野東照宮は寛永4年(1627)藤堂高虎が下屋敷内に造営。その後、将軍徳川家光が慶安4年(1651)現在に残る社殿を建立した。日本で唯一の金箔を貼った唐門や本殿などが、明治40年に国宝に指定されている。
【写真1】は明治中期の参道を写した横浜写真。境内には諸大名が献納した銅灯篭50基、石灯篭280基が並んでいた。中央の神明鳥居は寛永10(1633)年に酒井雅楽頭忠世が寄進。だが何故か天和年間に地中に埋められてしまった。享保19(1734)年、忠世の孫である酒井忠知が掘り出して再建したとされる。写真を拡大して読むと、左の柱に「寛永十年癸酉四月十七日厩橋侍従酒井雅楽頭源朝臣忠世」と刻字されている。また右手の柱に「奉寄進石華表一基東叡山 東照大権現寶前 得鉅石於備前国迎慈南海運千當山 陽推而奉建」と刻まれており、石は備前国から運ばれたことが分る。
【写真2】は明治末の明神鳥居。鳥居の手前に【写真1】ではなかった石段が造られた。
【写真3】は現在の明神鳥居。享保19年(1734)に再建の鳥居も現存。昭和17年鳥居と銅燈籠は国宝に指定された。左の柱裏面には「享保十九年甲寅十二月十七日厩橋城主従四位下酒井雅楽頭源朝臣忠知」と酒井忠知が再建した旨の刻字がある。
【写真4】は明治中期の唐門と本殿。日本唯一金箔の唐門の柱には昇竜・降竜などの作品が左甚五郎によって彫られている。本殿は慶安4年に造られたもの。
【写真5】は平成15年4月6日現在。桜満開の日曜とあって、参拝と見物客で大賑わいだった。


【写真1】上野東照宮の明神鳥居 明治中期の横浜写真
【写真2】明治末期の明神鳥居。
【写真3】平成19年6月27日現在の明神鳥居。
【写真4】明治末期の唐門と本殿。
【写真5】平成15年4月6日現在の唐門と本殿。


35上野動物園

【写真1】上野動物園入口。明治末か大正初期
【写真2】上野動物園の駱駝。明治38年頃。
【写真3】上野動物園のインド象。明治40年代はじめ頃。
【写真4】平成15年4月6日現在の恩賜上野動物園入口。


 上野寛永寺の跡地に、帝国博物館(現東京国立博物館)の附属として、帝国博物館と同日の明治15年3月20日に開園した日本最初の動物園。『上野動物園のあゆみ』によると、開園した年の有料入園者は20万5454人だった。当初は飼育されていた動物は91種類だったとのこと。
 【写真1】は上野動物園の入口。隣接する東照宮と同様、動物園は藤堂高虎の下屋敷だったところである。正門の脇に高虎の墓と再建された茶室閑々亭があった。
 【写真2】は明治38年頃の絵葉書で駱駝である。駱駝がひょうきんな顔をしたので、子供が笑っている。38年末の動物は592種に増えている。
 平成10年に平凡社から『別冊太陽 病牀六尺の人生 正岡子規』が発行される際、上野動物園入口の写真を提供した。そのキャプションに指正岡子規が明治27年に上野動物園を散策したときに詠んだ「夏痩せとしもなき象の姿かな」という俳句が記されていた。私にはどうにも意味が分らなかった。直感で「夏痩せしとも(友)なき象の姿かな」ではないかと思った。誤植で「と」と「し」が逆になってしまったのではないかと。早速編集の方に問い合わせた。専門家の意見では講談社発行の『正岡子規全集』にこの通り載っているし、この場合の「し」は強調の「し」で「夏痩せということもない象の姿よ」という意味であろうとのことであった。それでは夏痩せしていないという意味になってしまう。どうも腑に落ちない。象は夏痩せしていたのかしていなかったのか、それが問題となった。
 『事物起源辞典』を調べると、明治21年に清国産の象が入園している。1頭か2頭かは記載されていない。当然痩せているかどうかも書かれていない。明治44年発行の『東京風景』には、上野動物園の象が【写真3】掲載されている。インド象である。多分明治21年に清国から輸入されたのがこのインド象であろう。この句を詠んだ時より17年ほど後になるが、子規が詠んだのはこの象のような気がした。私には痩せているように見える。少なくとも太ってはいない。でも「いつも痩せているので夏痩せということもない」と詠んでもいいような気もする。
 それでは明治27年、象に友がいたかどうかを調べてみよう思った。動物園協会に親しい人のいる知人に調査を頼んだ。吉報だった。明治27年、上野動物園にはインド象1頭しかいなかった。友達の象はいなかったのである。俳句に見たままに詠む「写生」を取り入れたのが子規である。痩せた象の写真と1頭のみだったことを考え合わせると「夏痩せしとも(友)なき象の姿かな」とする方が私には意味がよく通じるのである(俳句に無知な者が言う戯言かもしれないが)。
 【写真4】は平成15年現在。花も盛りの日曜日とあって、入場券を購入するのに一苦労する程の混雑だった。現在約450種類2800頭の動物が飼育されている。パンダ・オカピ・アイアイなどの珍獣が人気である。園内には、昭和32年12月17日に開業の日本最初のモノレールが運行している。懸垂方式で東園と西園の300mを結んでいる。


34浅草寺ほおずき市

 浅草寺では毎月1日はご縁日が作られている。「功徳日」「欲日」とも呼ばれ、この縁日に参拝すれば、1回で何度も行ったと同じだけの功徳が得られるという。例えば1月1日は「百日」、12月19日は「四千日」の功徳が得られるという。7月10日はその中で最大、「四万六千日」参拝したと同じ功徳のある日とされる。
その「四万六千日」縁日にちなみ、浅草寺では毎年7月9日10日にほおずき市が開かれる。『図説 浅草寺今むかし』によれば、「お盆を前にして、盆棚飾りに用いるほおずきを霊場で求めておこうとする民間信仰によって、ほおずきが売られたのであろう。」とある。
この両日に限り、普段とは異なる「黄色の祈祷札」と「雷除」のお札を信徒に授けるそうである。かつて赤とうもろこしを軒先に吊るしてあった農家だけ、落雷の被害を受けなかったことがあり、以来「雷除」として境内で赤とうもろこしが売られるようになったという。しかし明治初年には不作だったため、代わりに浅草寺から「雷除御守護」のお守りを出すようになったとのこと。
 【写真1】は大正時代発行の絵葉書写真。キャプションにLantern Festivalとあるが、ほおずき市の写真である。ほおずきだけでなく手前ではお盆で用いる提灯を売っている。
 ところで、ほおずき市といえば愛宕山の愛宕神社が発祥だったといわれる。江戸期に武家屋敷に奉公していた中間が、6月24日の縁日に千成ほおずきの実を愛宕神社前で鵜呑みにすれば、大人は癪の種を切り、子供は虫の気が治まるとの愛宕権現の夢のお告げがあったそうである。その話を鵜呑みにした人が、早速実験したところ効能があったとのこと。千成ほおずきは小ぶりな青ほおずきで、江戸期には漢方薬として用いられていた。それで愛宕神社境内には6月24日の縁日にほおずき市が立つようになった。愛宕神社の縁日は、四万六千日の縁日だった。浅草寺も7月10日が四万六千日の縁日だったことから、四万六千日なら本家である浅草寺に、何時のことかほおずき市が立つようになったのである。いまも愛宕神社では6月23日24日に「千日詣りほおずき市」として毎年開催されている。
 一方、現在も浅草寺のほおずき市は大変な賑わいである。露天約200〜300店、2日間で約60万人が訪れるという。以前は青い千成ほおずきが主力だったが、栽培し出展する人がいなくなり、いまや赤い実の丹波ほおずきに変わっている。【写真2】は現在。浅草寺のほおずき市は江戸時代や明治時代を髣髴とさせるイベントとなった。

【写真1】大正時代の浅草寺のほおずき市。
【写真2】平成19年の浅草寺ほおずき市。7月10日撮影。


33上野の博覧会(その2)

 前号に引き続いて、上野で開催された博覧会の写真を掲載する。上野では明治大正時代に何度も博覧会が開かれたことは既に述べた。当初は外国に負けない優れた商品を製造するための殖産興業を目的とした博覧会であった。しかしそれだけではマンネリになる。明治36年に大坂で開催された第5回内国勧業博覧会から変化を生じた。産業振興目的だけではなく、娯楽的要素も取り入れて人集めを図るようになった。ウォーターシュートや不思議館などが造られた。夜にはイルミネーションを点灯するなどで華やかな祭典になった。
 明治40年に上野で開催の東京勧業博覧会では、山の上の第1会場と不忍池の第2会場と2会場に規模を拡げた。【写真1】は帝室博物館前の第1会場の入口、【写真2】は不忍池の第2会場入口前の様子である。第2会場入口前にはお土産を売る販売店が軒を並べた。パビリオンの高塔を模した広告塔を設け、博覧会土産として絵葉書、名刺用紙、はさみ、金物などが売られたことが写真から見て取れる。雑踏で繁盛している様子が写されている。ウォーターシュート【写真3】や空中展望車(観覧車)といった乗り物や、パノラマ館、世界周遊館、自動活動館、教育水族館など楽しめる施設が登場した。夜間はイルミネーションで会場を彩り、近代文明をアピールした。
次いで大正3年に開催された東京大正博覧会は、娯楽も目指した博覧会となった。美人旅行館という娯楽施設や、ケーブルカー、飛行機、エスカレーター【写真4】といった乗物も登場した。エスカレーターは、染織館(不忍池北西)の東側から東の第一会場の間に設置された。現在動物園ホールのある辺り【写真5】から、上野精養軒北側の坂道に造られていたらしい。
明治大正期に幾度も開催された博覧会には、各種物産の販売所が設けられるのが常であった。明治10年上野で開催の第1回内国勧業博覧会終了後、その売れ残りの品物を売るために、永楽町(丸の内)に商品を展示した東京府勧工場が開設された。その後、浅草・新橋・上野・芝などに次々と勧工場が開店する。そして人々は展示された商品を見て買い物をするという、ショッピングの楽しみを発見することになるのである。
その頃の商店は座売りであった。店頭に商品を置かず、お客が頼むと店員が商品を奥から出してきて見せるというもったいぶった売り方であった。勧工場が好評だったことから、これでは遅れをとると、老舗の呉服店である越後屋や白木屋が座売りを改めることになる。ショーウインドーやエレベーターが設置された百貨店に衣替えをするのである。上野での博覧会の影響を受け、銀座・日本橋からウインドーショッピングを楽しめる街への変貌が始まったのである。


【写真1】明治40年の東京勧業博覧会第1会場前入口。万国実体写真協会発行のステレオ写真。
【写真2】不忍池畔の第2会場入口前。
【写真3】不忍池のウォーターシュート。
【写真4】大正3年の東京大正博覧会に新登場のエスカレーター。
【写真5】エスカレーターのあった場所は、上野動物園内の動物園ホールのあるあたりらしい。


32上野の博覧会(その1)

【写真1】第1回内国勧業博覧会開催時の旧寛永寺表門。明治10年。
【写真2】第2回内国勧業博覧会の会場。明治14年
【写真3】入口を入ると左右にあった噴水。
【写真4】第3回内国勧業博覧会参考館。明治23年。
【写真5】内国勧業博覧会が開催された場所。平成19年8月8日現在。


 東京での博覧会は明治4年に九段招魂社(物産会)、明治5年に湯島聖堂(文部省博覧会)で開催されたが、明治10年に上野で第1回内国勧業博覧会が開かれてからは、上野で開催されるのが常となった。
 明治政府は膨大な出費を厭わず、「勧業殖産」と「富国強兵」を振興するため、勧業博覧会を明治期に5回開催した。その第3回までが上野公園だった(第4回は京都、第5回は大阪)。その外、水産博覧会(明治16年)・発明品博覧会(明治42年)・大正博覧会(大正3年)・江戸記念博覧会(大正4年)・遷都50年記念博覧会(大正6年)・平和記念東京博覧会(大正11年)・こども博覧会(大正15年)など、数々の博覧会が明治大正を通じて上野で開催されている。こうした博覧会により上野は流行と情報の発信基地となっていた。
第1回内国勧業博覧会は明治10年8月21日から11月30日まで、現国立博物館の場所で開催された。古物・珍物・奇品を展示する好古的要素を改め、近代国家として殖産興業を前面にだした博覧会だった。全国から物産を集め、比較し、世界に通用する商品を作り出していこうとする意図があった。【写真1】は第1回内国勧業博覧会開催時の表門。寛永寺旧本坊の表門の上に時計が設置された。この時計は博覧会が終了すると降ろされたらしい(時計なのに撤去した日時は不明)。門を入ると右手に農業館、左手に園芸館、機械館が並び、正面奥に小さな美術館が建てられていた。この博覧会で目を惹いたのは、上野公園入口前(階段の下)に造られた直径約15メートルの羽を持つ水汲み風車だった。
第2回内国勧業博覧会は明治14年3月1日から6月30日まで開催。【写真2】は入口正面を撮影したもの。中央に時計塔が見える。博覧会といっても、まだ質素な建物だった。「内国勧業博覧会」と看板にある。門が閉じられているので開催前の撮影だろうか。手前の人物や人力車はコラージュ(合成)で入れられている。表門を入ると左右に噴水【写真3】があった(もう一つ美術館前に大噴水があった)。水は不忍池より埋樋(うめとい)で引いてきた。時計塔の先にある旧寛永寺の表門をくぐると、突き当たりに大きな美術館があった。竣工直前(15年竣工)だったコンドル設計の美術館を使用したのである。
内国勧業博覧会も3回目(明治23年4月1日〜7月31日開催)になると、かくも立派な建物(参考館)【写真4】が造られるようになった(明治22年12月25日の竣工)。絵地図で見ると、帝室博物館の東側に並んで建てられていた。
 【写真5】は現在。第1回内国勧業博覧会は現国立博物館の正門の内部で、第2回、第3回は手前の噴水のあるところまで拡大して開催されている。


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